「風浪の果てに」思うこと

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4月の9日国立能楽堂能楽堂に行ってきました。藤田六郎兵衛(笛方藤田流十一世宗家)さんが主宰する「萬歳楽座」鑑賞のためです。
数年前私が名古屋で講演した時に、藤田さんと名刺を交換させて頂きました。そのご縁だと思っております。
開演に先立ち、主宰者として藤田さんがご挨拶されましたが、実に上手な語り口でした。新作の「豊穣」と題した、素囃子の笛も聴き応えがありました。

会場でCDを購入して、それを聞きながら、このブログを書いています。
今回の観賞には二つの目的があっての参加でした。
一つは、現在書き進めている「風浪の果てに」の主人公は、鼓を自ら作り、演奏できるという沼崎吉五郎という人物を主人公としています。そんなわけで、子鼓と大鼓の演奏の仕方、音色の違いなど、私の記述に間違いが無いかどうかの確認でした。「鼓」でも「子鼓」と「大鼓」の扱いと、打ち方、音色大きく違います。それをしっかり確かめることが出来ました。

二つ目は、今回の出演者の方々の、佇まい、居ずまい、歩き方、呼吸法などをじっくりと観察させて頂く事でした。今回の能・狂言演者には5人の「人間国宝」がおいでで、大変勉強になりました。
脇正面の真ん中の座席だったため、舞台で佇む演者の重心の置き方、橋掛り(歌舞伎で言えば花道)での足捌きなど、居合や、弓道を囓っている小生にとって大変役立ちました。
会場は満席で、高円宮ご夫妻もご臨席されておられたようです。

能の「船弁慶」は、ご存じの通り、義経役は「子方」といわれる少年の演じる役です。追ってきた静との男女間の愛情表現を和らげるためと言われています。上手く出来ています。ただ素人の戯れ言ですが、全体構成として中だるみと、重複のまどろっこしさを感じますが、これは何百年と淘汰されて、最後のクライマックスに至る演出なのでしょうから、「それはお前の感性がおかしい」と云われればその様であるのでしょう。従って、あくまでもそういう感想を持った「素人観覧者」もいるということです。
時間的空間的余裕のない暮らしをしているのかな……私は。
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ところで、櫻も東京ではすっかり散ってしまいましたが、その潔い散り際のみを美化し、やたらと感傷的になるのは好みません。前回のブログで「むしろ葉櫻が好きだ」とはそういう私の意志表示です。散りゆく櫻の情緒的な面を殊更取り上げるのは危険です。そういう感情には誰も抵抗できず反論しにくい。そこで思考が停止し、やすっぽい美意識にいつの間にかすり替えられてしまう危険があります。

東日本大震災と福島第一原発事故、この両者は全く別な解決策が必要ですが、それは一先ず措き、何れも情緒的、感傷的な報道が多すぎます。小説・詩歌などの文学も十分に咀嚼された作品は現在の所ありません。理性と感性の融合は「時」が解決してくれるのか、あるいは「時」を俟って、いつの間にか、希薄になり、うやむやに霧散してしまうのか。
花冷えの季節の観劇と、地に散った櫻の花弁を見て、色々と啓発されることがありました。