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紀伊國屋書店台湾 VOL.44

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 数日前に、「言挙げぞする」というワードで検索したら、ヤフーのサブジェクト機能に「紀伊國屋書店台湾」というサイトが表示されたので、さっそく開いてみた。(写真添付)
 購入するのは在台湾の日本人だろうが、著者の立場からいろんなことを考えた。
「言挙げぞする」の14章「儒教の宗教性と仏教」─本当の儒教を知らない日本人─では、孔子以前の儒から考え起こして、儒教の強烈な「宗教性」を明らかにした。中国にあっては儒教は宗教そのものなのだ。本来宗教とは「宗教」+「道徳」が必ずセットになって、宗教となる。
「宗教」とは生死観の核心部分を指す。日本では宗教教育が行われていないので、宗教とはどういうものかわからないまま、「道徳」のみの偏頗な理解しかない。あわせて、世界の宗教がどんなことなのかと、比較することも全く学んでいない。これは、近い将来、日本民族にとって致命的なことになる。(既になっていると言い換えてもいい……)

 日本人の儒教観は、論語や朱子学・陽明学(宋学)などの道徳部分の「儒学」しか理解できない。誰からも、それ以外のことを教えられないのだから当然と言えば当然なのだ。江戸中期から明治・大正・昭和とそれをよしとして現在に至っている。だから「中国人」と接するとき、間違った物差しをずっとあててきたのだ。(これを30年前に正しく指摘した学者は、加地伸行先生ただお独りであった)
台湾人達は同族なのでそのような過ちは犯さない。大陸の中国に常に政治的にも経済的にも呑み込まれてしまうという危機感を抱きながら、日々暮らしているので、拙著の内容を遙かに敏感に理解するはずである。「儒教」の脅威が何であるかという根本を理解出来ない日本人は、中国の大きな脅威に対抗できない。同時に個としての中国人の生死観を知らないのだから、彼等と真摯に向き合うことが出来ないにきまっている。
儒教に限らず、日本的亜流「仏教」となってしまった、檀家仏教・葬式仏教も浅い。それら間違った物差しを修正する糸口として、拙著を役立ててほしいものだ。

 ワールドカップ予選リーグで、日本チームがベスト16に勝ち上がった。
試合終了のホイッスルを聞くまで同点ゴールを目ざせば、観衆からブーイングを浴びることはなく、果敢に戦ってフェアプレーポイントの優位性が崩れ、セネガルに2位を譲ることになっても、美しき敗者、勇敢な行為を為し遂げるサムライとして讃えられたという意見がある。
日本チーム率いる西野監督の指示による、後半10分のボール廻しは、「武士道」にあるまじきことだという批判だが、それは全くの見当違いだ。国技に近く馴染んでいる欧州や南米のサッカー国のサポーターが皮肉ややっかみで言うのは放って置けば良いが、日本人がそういう発言をするのは実に甘く浅い認識だ。
そもそも「武士道」とは何かという概念を理解していない。
作家、司馬遼太郎氏は戦後の日本人が失ったものとして「武士道」をあげた。武士道が美徳とする礼節、忍耐、貞節、忠義、責任、潔さ、名誉、尚武の気風等々は日本人が失ったものだという認識である。特定の宗教をもたない(と思っている)日本人にとって、それに代わる唯一の倫理規範が武士道というわけだ。しかしそれはあくまでも一面的なことである。
実は「武士」というものが世の中から居なくなって久しい明治も後期に入った19世紀の終わり頃から「武士道」という言葉が流行った。この「武士道」とは、近代国家を目指す時期に創られた言葉である。
1899年に『Bushido: The Soul of Japan』「武士道」という著書を残した新渡戸稲造博士は、武士道の7つの徳(礼、忠義、誠、名誉、仁、勇、義)をベースにして、日本人は倫理観が高く、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されており、とくに武士はそういう意識が高いと説いた。日本人はキリスト教徒ではないが、決して野蛮人ではないということをアピールしたかった。日本にも西洋の騎士道に似たものがあり、実践されていたと、欧米人に知らしめるため、武士の道徳的価値観の中から、理想的部分を選んで作り直し、日本社会が過去から受け継いできた倫理観の理想を描いた創作なのだ。
倫理性だけをみれば江戸時代の武士よりも、商人の方が高い倫理性を発揮しており、慈善事業は、もっぱら経済力のある商人や篤農家がおこなった。
むしろ真の武士道を知るには宮本武蔵の「五輪書」を読むのがいい。13歳から61歳の生を終えるまで、真剣勝負をし続け、約60の試合すべてに勝利した。「五輪書」は戦いをするために必要な準備、そして実際に戦うときの考え方、心の持ち方、体の使い方が書かれている。また戦いのみならず、人間行動の核心をつく本質が簡潔に書かれている。しかしかくいう武蔵も、53歳の時、島原の乱では小笠原家の隊長格で久々に出陣したが、足に一揆軍の投石を受けて負傷し、大きな働きはできなかった。情報収集が甘かったのだ。

 諸般の事情で、急遽日本代表監督を引き受けられた、西野監督の心中の辛さは、察して余りあるが、本戦までの短い間に、勝つための、あるいは負けないための情報を集めたことであろう。予選突破が絶対命題である限り、監督として、個々の選手達の心を掴み、戦う集団として鼓舞し、更には新しく導入された、1)ビデオ判定、2)戦術的な目的で電子機器を使用可能、3)決勝トーナメントの延長戦における4人目の交代、4)フェアプレーポイントの規定などをどう使いこなすか、コーチ陣とのコミュニケーションも大切であった。特に問題の10分間のパス回しなどは、2)、4)などを徹底的に利用した結果である。西野監督は、自己の意志決定を信じ、自力であろうが他力になろうが、腹を括ってぶれなかった。監督を信じて戦った選手達も立派だった。
 この決断は、120年前に創作された理想の「武士道」イコール日本人であるという従来のステレオタイプの考え方を変えた、新しい日本的実践思想に通ずるものであると私は評価する。

 日本人が世界に通ずる「武士道」を新構築するためには、あらゆる武道における「残心(身)」を、もっと深く考えることが必要である。この私論は、日本人が世界に対して新しい一歩を歩み出す、大切な実践論になると思う。「残心(身)論」については、体系的な説明が必要なので、何れ講演会などで直にお話し出来ればと思っている。     平成30年7月2日  春吉省吾

写真説明上から
●「紀伊國屋書店台湾」のブログに掲載されている「言挙げぞする」。著者としては変な感覚だ。
●友人が送ってくれた飯坂温泉の「ラヂウム玉子」。この美味さを知ると他のどんな温泉玉子も食べられなくなる。
●猛暑の「梅雨」と思っていたが、いつの間にか「梅雨明け」だという。近未来の自然現象はこの先も、予測不能のようだ。